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第六章

   

劇作家 「青木範夫」とその文学の世界

造形美の結晶 詩劇「赤穂の人々」

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青木範夫はぼくの「師」、mentor であった。東京都港区立新制青山中学の野球部の初代監督である。後、演劇サークル「バオック」を創始、文学、演劇の分野で異色な活動をして知られた。

 代表作に詩劇と銘記した「赤穂の人々」、「淀の方」等の劇詩、「鎮魂曲·祈る」、「喜劇·完了」、「子」、「青磁の船」、「水晶の塔」、そして風刺劇「日本の産業」と題したシリーズ物が有る。

 ぼくの青春時代の精神生活は、青木範夫を知性的にコピー(模倣)すると言う作業から始まった。素質もない、野球、文学、演劇の真似事をしたが、借り物の知覚の悲しさで、これをやる動機も、解釈も、全て青木範夫の受け売りだったから、自分のものである為の知覚力が伴っていなかった。

もっとも、この受け売り云々は僕が勝手に自称するだけのことだから、青木範夫に言わせれば、そんな事を教えたことは無いといわれるかもしれない。不肖の教え子とはそんなもので、青木範夫には迷惑な話だろうが、兄とも師とも思い慕ってきたぼくにしてみれば、物事を考えるにあたって、青木範夫を意識しないでできることは何も無かったのだから。

だから、自問自答するという作業にあたって、ぼくの頭の中に実存して、ぼくの対話を聞いてくれたのが青木範夫だった。手紙は出せない事情があったから、「青木さん」で始まる日記風の書き物をしてきた。実はこの評論は其の後、書簡にして郵送したものを、彼の勧めで評論の形に書き直したものである。

 ここにわざわざ、一章を設けて、改めて青木範夫を紹介するのには理由がある。

 生後数ヶ月の幼児や精神異常者ならば兎に角、自己を規制する教義の無い個人というものは考えられないから、ぼくにも信奉する教義なるものが渡米以前からあった筈である。それが何であったか分からなかった頃、青木範夫はぼくのperception なるものを評価してくれるモノサシだった。同時にまた日本人の精神生活を規制する教義なるものを、具象化してくれる体現者でもあった。

 人の心を規定して其れを信仰する宗教が日本に有ったとすれば、ぼくは日本教徒、青木範夫宗の信徒である。ぼくの精神的アイデンテティを成した御本尊を紹介しなければこの一文を書く意味が無い。

 宗教の第一義は信心に有る。学問とは違い分析、批判を論理的に行う作業は省かれる。だから此れは青木範夫を劇作家として批評、其の作品を文学的に分析する為のものではないことを断って置きたい。青木範夫と其の作品を紹介しながらその福音(gospelを説く積もりなのである。悪しからず。

 前置きが長くなったが、プロローグで前述したとうり、この評論はぼくの自問自答(モノローグ)を文章にした、一種の信仰的告白みたいなものである。悪しからずと断ったのは、折角読んでくださる読者を思い、本章が必ずしもあなたの時間と労動に値いする一文ではないかもしれないことを、案じてのことである。

   「お前どうする積もりだ」と聞かれて。「ナントかなります」と答えるのは良くある事である。ぼくもそうだった。青木範夫は其れを酷く嫌がった。「ナントか成るじゃないだろう。ナントかします、と答えるべきじゃ無いのか。」

 彼は闘争の人であった。苦境に有って、「神」頼みに運に任せると言う態度を徹底的に戒めた。  

   不貞腐れるのは人の習性。果報は寝て待てというような生き方を即刻、否定した。「成せば成る」と言う諺が有るが、「成せども、成らぬ」事がある事ぐらい、先刻ご存知であった。ナントかしていく行動力の純粋さの中に美意識なる「価値」を見出す事をもって、究極的な「人間」の救在と考えた。「行動」は純粋であり美しくあっても、すべてが無為に終わるものなのであるから。

 だから青木範夫の作品には「反乱」「革命」「蜂起」をテーマにした作品が主要をなしている。「詩劇 赤穂の人々」(190年6月15―19日、バオック初公演、産経国際ホール)喜劇「完了」(191年6月8日―11日、バオック初公演、俳優座劇場)、「子」(192年6月297月1日、バオック初公演、俳優座劇場)、等がそうであるが、何れも純情(ナイーブ)な蜂起がやがては、挫折してしまうというのが共通している。

 「成せども成らなかった」事情を「現実」の厳しさ、何故成らなかったのかと言う問題を、解明。更には何とかしようとして立ち上がざるを得なかった男女の動機の純粋さを強調して、其の行動を「美しい」と規定している(といっていけなければ、少なくとも「美しく」描かれていると言いたい)。 これは「鎮魂曲 祈る」のテーマにも繋がるが、「特攻隊」という異常な立場が設定され、青年達が自爆の狂気に追いこめられていく姿を「美しく」、描いている。

 青木範夫の終生の怒りは、其の純粋な行いを利用した「組織」或は「計画された頭脳」が有った事実に対してのことであった。 其れは、「祈る」の四年後に公演された、「喜劇・完了」に直接取り上げられている。

「太平洋戦争」終結の前日、皇宮内で録音された昭和天皇の「終戦勅語の録音盤」を奪取しようとした一団の陸軍将校の一揆があった。この事件を題材にして劇化(dramatize)したフィクションが「完了」である。「終戦」を阻止しようとする過激な陸軍将校のいる事を仮測した陸軍上司令部の高官並びにそのブレーンの将校が、その反乱を未然に阻止するために、過激派と思われる将校たちを一同に集結させ、扇動し、彼らが「行動」に移らんとした直前に粛清してしまうと言う物語である。いわゆるハリウッド制の映画によくある囮(decoy)を使って、危険性のある(と思われた)者或はグループを即急に阻止するための姑息な手段が善意の若い将校たち殺してしまうと言うものである。

同作品は1959年9月に雑誌「三田文学」に発表された作品を同作家が改定したものを、1961年6月8日から4日間にわたり「ばおっく」が、「俳優座」で上演した。「完了」には「喜劇」と言う但し書きがついている。もちろん、こんな話が、文字どうりの喜劇である訳がない。仮に彼らは職業軍人であったとしても、純粋に軍人であろうと勤める善意の若者たちであった。その集まりを利用した施政者が彼らの動機を囮にして、その生命を奪ってしまうのは、「自爆」に追い込まれる「特攻隊」と同じく悲劇であるべき筈だから、「喜劇」と銘打ったは、青木範夫の主観、作者をして「喜劇」とカテゴライズさせる「思想」があったのだと信じる。悲劇をわざと喜劇と称して気取って見せたのでは絶対にない。

青木範夫は「青中」の野球部を創設して以来、その一生をリーダー、指導者、引率者、主宰者、責任者をもって終えている。彼が行くところ、何処にあっても、若い善良な学生たちが集まった。もちろんリーダー格としての外貌は充分だった。立って六尺余の背丈に西洋人を思わせる容姿。口を開けば文字どうり口角泡を飛ばすこと数時間、東西の歴史、文化、文学を語るに足らず、学生の血気を高め、聞くものをして何事でも犠牲にして、連いて行かざるをえないと思わせるほどのカリズマの持ち主だった。一方、青木範夫の方も集まってくる者たちを「善意」の者の集まりと称して愛した。そして其れが彼の人生をして「悲劇」となし、彼をそこに追い詰めることになる。青木範夫はその教え子を善導しようと専念した。しかし、その一方、自分に無条件に慕ってくるものたちを傷つけることをも恐れた。ばおっくが崩壊した時、青木範夫ははっきり言っている。「おれは、善意のものを集めて行動することは、今後、一切しないであろう」と。「完了」の将校たちの行いが「喜劇」となるのは、実は青木範夫の良心、あるいは自意識、リーダーとして彼に付いて来るものたちに対する勧告、まさしく彼の罪の予感を表明していたからだと思う。

ぼくの教え子の一人に、サンフランシスコ市のポリスステイションに勤務する女性がいた。婦人警察官である。彼女の任務は「囮」になることである。何処の都市でも「警備」の行き届かない危険な地域は沢山ある。彼女は毎夜、ホームレスを思わせるような衣服をまとい、その種の街に出かける。そしてあたかも溺酔した老女かのように道路に横たわる。もちろん彼女の見回り品も傍らに投げ出されている。古びたハンドバックは口をあけて、中にある少々の現金が見えている次第である。其れが囮の餌である。周囲はアスファルトジャングルの路地だ。近所に屯する風体の悪い人影がある。当然、その内の誰かは何事かと、彼女の周りに近ずいてくる。中には彼女を介抱しようとするものもいるが、その教え子の話では、大抵、現金のはみ出たバックが目に付いた段階で、介抱を装いながら、その現金に手をつけるものが殆どだという。あたりまえな話じゃないですか。手を出さないものがいれば、出さないもののほうがおかしいでしょう。彼女はその瞬間を待っているのだ。彼女の務めは、直ちに婦人警察官となって、立ち上がり、現金を握った手首に手錠をすばやくかけ、笛を吹いて、周りの街角に隠れている同僚に合図をする。現行犯逮捕である。あなたはそうやって逮捕される者たちをなんと思われる。全く、バッカな野郎どもだと、ぼくは思った。同時に、そんな細工をして現行犯を逮捕しようとするシステムを憎んだ。そんなおとりに乗る者たちのナイーブな頭脳が滑稽だった。其れが「喜劇完了」の喜劇たる所以なのである。実はぼくは「ばおっく」で陸軍少尉池田純の役を演じた時には何故この芝居が喜劇なのかわかっていなかった。教え子の婦人警官から話を聞きながら、ぼくは改めて「完了」の救いのない世界を考えていた。「喜劇 完了」を救いのない芝居と評したのは、山本清である。今になって、ぼくもそのとうりであると考える事ができる。

囮を使って現行犯を逮捕する仕組みを教えられて初めて、「完了」の青年将校たちのおろそかさを知った訳である。同時にそんな囮を使った「完了」の上官たちへの憎しみも募った。

長くなるがいま少し考えさせてもらう。目的を抱えて行動したのは「赤穂の浪士」たちも同じである。目的は城主、浅野内頭長矩が受けた屈辱を報復、吉良上野介を殺すことである。47人の浪士は決して騙されて一堂に会した集団ではない。サムライのしきたりに習って、あだ討ちを決し、自ら死を選んだ者たちのはずである。「完了」の青年将校と赤穂の浪士は性質の違う集団であり、それゆえに「四十七人」の死が無意味な行いだったと判断されることはないであろう。しかし其れは違う。

青木範夫は元禄14年(1701年)に端を発した播州赤穂の城主と当時、高家筆頭の職にあった吉良との経緯を題材にしてはいるが、浅野と吉良の対決の理由を次のようにフィクション化している。実は世に知られている、吉良が浅野を愚弄して、城中にて刃傷をさせた事件には別の理由があった。事件の直前、吉良は浅野の妻、「顔世」から昔自分が(彼女)に書いた、ラブレターが返されてきたのを受け取った。吉良が激昂したのはそのためだったと言う次第である。

二人の同窓、あるいは友人が一人の女性を愛したが為、、、こうなった、と言う物語は古今東西何処に行ってもある話である。日本では特にぼくらの世代では、夏目漱石著の「三四郎」の「先生」の話を思い起こす。なぜ漱石をここに引用するのか、実は理由がある。青木範夫と夏目漱石の関係を後に説明するための伏線にしておきたいからであるが、その前に、顔世によって代表される青木範夫の女性観を紹介しておかなければならない。

「新しい女性」、「行動する女性」の表現を使用して、理想の女性観を作り上げようとしたのは青木範夫である。余談になるが、創設当時の「ばおっく」の女性会員を例にとって見よう。ほとんどの女性会員は自動車運転の免許証を持っていたのだ。現在の話ではない。1955年だから昭和30年代の話である。男性だって車の運転のできるものはそんなにいなかった。彼女たちが裕福だったから自家用車を持っていたと解釈されてもらっては困る。自分の車を持っていた女性もあったが、運転するのは「ばおっく」の車。ぼくが言いたいのは彼女たちは当時、その厳しさでは世界に知られた日本国発行の自動車免許証をとるために、率先して教習場に通い、その難しい試験に通っていたと言う事実。青木範夫ですら免許皆伝まで八回も試験を受け直した程、日本の免許は取り辛かった。

 車の運転ができるかできないかで、その人の人生観にちがいができることは必然である。何故ぼくが、車の運転のできたあの当時の「女性」をもって、「新しい女性」の資格が有るとするのか、語弊があるといけないから、僕自身の例をあげて説明しておこう。ぼくが免許証を取って、自分で車の運転を始めたのは、60才のとき、渡米以来まさに30年過ぎての話である。理由は簡単である。住んでいた、サン·フランシスコは日本の市町村と同じく、公衆交通機関の発達した町で、歌に知られたケーブルカーは別にして、バス、市電、地下鉄、トロリー、鉄道など、通勤、通学に自家用車なしで、不便なく生活のできるところであった。もちろん市外に出なければ成らない時もあった。しかし行き先の町には、仕事柄、必ず何処かに、教え子が住んでいたから、電話一本で迎えにきてもらえるような贅沢な生活をしていた。週末のレイジャーには、結婚してからは、女房が、結婚する前でも、同棲中の女性が誰か居たわけだから、彼女らの車で何処にでも遊びに行けた訳だ。車の運転のできないこと、自分の車のないことを不便に感じた事は一度もなかった。つまり徹底した不精者であったのである。

 困ったのはシスコから80キロ郊外に自宅を買ったときである。シスコは流石に老舗の町で、家一軒買うには大変な額の敷金を払わなければ成らない。少し郊外に出なければ、ぼくら夫妻が買える家は見当たらない。妻のハイデが現在住んでいる Danvilleの町に「家」を買ってくれたのだが、さて困ったのが通勤の方法である。流石に日本と違って、鉄道は有るには有るが、土地の広さに格段の違いがある。BART という地下鉄を使っても、そのBARTの駅に行くのに、とてもとてもバスの乗り継ぎで、いけるものではない。3時間から、4時間もかかるのだから。

 だから、止むをえずして、車の運転を始めたのである。ところが免許証も取って、自分の車を持って、大学と道場に通勤するようになって、自分の人生の視覚が広がったことに気が付いたのである。アメリカは広いといっても陸続きである。日数さえ懸ければ、西の太平洋岸から、東の大西洋岸まで一人で好きな時に勝手に行けるのである。アメリカには自分の好みを正々堂々と言って、それを手に入れられる「自由」があることは既に申しあげた。シスコに住んでいた頃は、その街がぼくの(限られた)活動範内なのであるから、必要がなければ、その外に出る欲望も、当然、ない。ところが郊外に出て、自宅から通勤するに当たって、自分の知らなかった、他所の町がある事に気がついた。知らない町がどんな所か、興味を持つということである。不精者を決め込んで何事も億劫だったはずのばくは、町から町へのドライブを楽しむようになった。自分に機動力のある足ができるということは蓋し、便利なことである。他人に頼らず、自分の計画で好きな時、好きな場所を訪問できるということになる。

 アメリカ人の旅行好き、バケーションをもってレイジャーとする生活態度と共に、実はこの背景で出来上がったのである。ぼくの言いたいのは、そうやって育てられた彼らの世界はその視野が延々と広がるということである。其れは単に物理学的に言う、「場所」だけの問題ではない。好き好みの量と質が人生という「道」にも当てはまるのである。文字どうり「我が道を行く」と言う言葉が肯定される次第となる。まだある。車を自分で運転するには、右に回るのも、左に回るのも、そしてレーンをひとつ替えるのも、すべからく自分の判断でしなければならない。誰か助手席や後ろの席に乗って居たら話は違うが、一人で運転する限り、自分の体より大きな車をタイミングを計って、自分で操作する次第である。そして一番大切なことは、その判断をするに当たって道路交通法を的確に守らなければ成らない。デモクラシーという思想のある世界で、自分の権利をはっきりクレームし更に他人の権利も認めて、譲り合うという、原則、基礎訓練が、車を運転することできあがるのである。

 アメリカの高校生は卒業前にほとんど運転免許証を取る。成人に達した時点で自動車の運転を始める事。免許証は成人して一人前に成ることを意味するのだから。

 少々、「車」に拘りすぎたが、男性や他人に頼って毎日の生活を送る女性観は「ばおっく」にはなかった。集会にあたって激論を飛ばすのは全て女性で、流石の青木範夫もデスカッシオンともなれば、口を慎まなければならなかったこともよくあった。だから、「新しい女性」「行動する女性」は青木範夫が育ててできた女性群ではなく、「ばおっく」ができた段階ですでに存在していたのだ。言いたいことも言はずに、常に男性に傅くと言う旧い女性のイメージが日本人の生活の中にあった。青木範夫は其れを嫌った。だから、彼の描く女性には革命の闘士を率先していくような女性、仮に美しくあっても、克己心に秀でて、決断力をもった視野の広い女性を描いた。

 「顔世」は儒学と兵学に奥した山鹿甚五左衛門の一人娘であった。浅野内頭長矩、吉良上野介は共に山鹿甚五左衛門の教えを受けた。上野介は自分の家柄を信じて山鹿甚五左衛門に顔世を妻に求めた。しかし、山鹿甚五左衛門は内頭を選び、顔世を彼の妻にやった。もちろん顔世は父親の選択に口を出すことはしなかったが、同二人のほかにも、同じく父の教え子だった大石内蔵助、千坂兵部も彼女を愛していたことを知っていたことになっている。と言うことは、彼女の夫を始めほか47人の男性が、実は彼女ゆえに死んでいく物語に書き換えられているわけである。もちろん此れは「完了」の囮とは違い、顔世に責任はない。若し此れが顔世の責任だとするならば其れは劇作家青木範夫個人の主張に他ならない。

日本の戯曲に詩劇と名付けられた劇詩が登場できる場のあることを青木範夫は信じていた。歌舞伎の世界に精通していた青木範夫のことである。日常の口語、日本語を使って韻文の劇詩を書く力は既に持っていた。問題は詩劇の名に値する題材であった。T.S.エリオットの「寺院の殺人」(Murder In The Cathedral) に匹敵する題材。其れは日本の市井で語り継がれた、歴史的に日本の文化を象徴したものでなければならない。聖トマス ベケットは英国12世紀の実在した大司教(Archbishop)。彼の大寺院は(Cathedral) は英国ケント州のカンタベリーにあった。同市カンタベリーは後、英国国教の総本山と成る英国有数の都市である。第三章に簡単に述べたとうり、現在のイギリスの国教はローマのカソリックではない。ご存知のとうりヘンリー王8世がバチカンのポープと仲ちがいしてローマ派から脱宗したのが16世紀の始めだから、ベケット大司教が暗殺されるのはそれよりも4百年前の話である。だから、ヘンリー王ニ世が彼の友人かつ仕官であったトマス.ベケットを大司教に任命した時は英国はまだバチカンの傘下にあった。英国の歴史に於いて国王と教会との関係は何時の時代にても複雑でその権力の奪い合いは丁度、日本史の「天皇家」と「幕府」の関係に似ている。友人のように愛した、トマス ベケットを大司教という最高の職に任命しながら、任命からわずか8年後に、4人の騎士をを差し向けて暗殺してしまうと言う話、、、もちろんバチカンのポープによる取調べに当たって、ヘンリー王二世は同殺害事件には関与していないと断言してはいるが、その証言が事実かどうかは別としてこの歴史上の物語はそのスケールからしてベケットの詩劇に値することは事実である。英国史上よくしられた話、明治、大正以後の日本の文学界に紹介された、有名なチョウサー(Geoffrey Chaucer)の「カンターベリー物語」も同じ話である。

歌舞伎にもなった「忠臣蔵」の話は日本人に愛された話である。トマス ベケットのような殉教者は日本の歴史にもある。若し青木範夫がT.S.エリオットの真似をして、聖トマス ベケットのような「殉教者」を日本史に探そうと思えば候補者はいくらでもあったと思う、しかし、彼が選んだのは47人の浪人、おそらく殉教者のイメージからは縁遠い人たちであった。昭和35年6月、産経国際ホールで初めて、播州赤穂の城主、浅野内頭長矩の役を演じた時、ぼくにはそう思えた。あれから半世紀の歳月が過ぎ異国に住み、この一文を書き始めてから幾度も幾度も当時の台本を読み直した。今のぼくには、当時、ぼくが思いもしなかった解釈を持っている。はっきり言う、47人の浪人は「日本教」という日本人の「人の道」を守るために自刃していった、殉教者の一群だったのだと。

ぼくは、青木範夫作「詩劇 赤穂の人々」は「武士の道」に規定された不文律の世界を忠実に従って死んでいく「男たち」を描いた、宗教のテキスト、BIBLE だと解釈している。此れはもちろん、「青木範夫宗」信者のぼくが勝手にそういうだけのことで、青木範夫はそんなものを書いたと言う自覚は持っていない。

 その代わり、当時の世に有って、もっとも高邁なる教育を受け、武道の修練(DISCIPLINE)に卓越した4人の男性が愛した 「顔世」と言う女性を的確に「創作」しようとした。「顔世」はしかして、美しく、強く、新しくなければならなかった次第である。

「顔世」はしかし、男性の読者、観客に「好かれる」ようには描かれていない。四人の男性の主役たちがそろって愛した女性でありながら、観客には「敵役」(antagonist) かのように、非の目立つ、好まれ難い人物となって登場してくる。それは彼女の世俗性にあろう。4人の男性とは違い、武士の道を尊び、「死」をもって、一切を決算する男性の世界を、恨み忌む。第3幕、「討入」の直前、内蔵助と最後の対面のシーンがある。内蔵助は「顔世」を責める。

 

 内蔵助   47人の人間があなたの為に死ぬ。

 顔世    行かないで下さい。わたしは...  

 内蔵助   その時、あなたは多くの男に愛された誇りに心をおどらせる。

 顔世     わたしは誰でもいい、心から愛せる人がほしかったのです。

 

「顔世」の最後のセリフは絶叫に近い。彼女は愛し愛されるために生きている。死んで生前の過ち(この場合、道を逸することの罪)を清算しようとする男性とは違う。規定された道のある世界で、自分の道を守り、必至に生きていこうとする「顔世」は、なるほど、旧い世間からは顰蹙を買うかもしれないが、醜い「顔世」の言動をわざと創作した青木範夫の「意思」が汲み取れるのである。

 ぼくはここに、これ以上「顔世」の女性格を書くつもりはない。はじめに断ったように、これは劇作家青木範夫の作品を文学の対象にして、批評するものではないからである。だが、ただひとつ、英文学科を学んだ「文学者」学徒の一人として、此れだけは言っておきたい。「詩劇·赤穂の人々」はその題材、構成、美術、台詞、音楽のいずれの分野をとっても、T.S.エリオットの"Murder In The Cathedral"と匹敵する、日本戯曲界最初の本格的「詩劇」であることを信じて疑わない。末筆になるが、因みに、音楽作曲を担当したのは荒川庸、彼女無くしてこの詩劇は生まれなかったであろう。

「日本の産業」(195911月27日29日、バオック初公演、俳優座劇場)、「皆でお船を造りましょう」196012月8日―11日、バオック初公演、俳優座劇場「砂利道が舗装される時」(19611130―12月3日、バオック初公演、俳優座劇場)はいわゆる「産業シリーズ」で「能」に対する「狂言」、肩の凝らない笑劇である。青木範夫が学生に愛された今ひとつのカリズマ性はその卓越したユーモア支えられていた。人を爆笑させることに事欠かない、話術とその材料を豊富に身につけていた。罪のない駄洒落に始まって、下町の文化財「落語」から格式の高い「狂言」にいたるまで、うまかった。「日本の産業」と題した笑劇を書かざるを得なかった背景である。人をからかうのも好きだった。「日本の産業」に出てくる登場人物は皆、市井の善人で、悪人は一人もいない。しかし、彼は彼らを笑い、からかった。其れが「日本の産業」である。

ここで今一度、夏目漱石に戻る。ぼくは漱石を青木範夫から習った。彼のコーチを受けながら全作品を貪るように読んだ。つまり夏目漱石は青木範夫にとっても、その人格を形成する段階で、強い影響を与えた作家であった。

青木範夫は「金」を軽蔑した。もっとも「金」の方も彼を嫌ったのか、彼は全く金とは縁の無い人生を送った。しかし百人を上まわる弟子を抱えて「金」なしでバオックなる大所帯を経営できないから、「カクタス」、「ベルジン」なる事業を起こしたが、何度も破産しかけている。

しかし、そこがやはり行動の人である。借金で首も回らなくなりながら、なをかつ「何とかしつずけ」た。

ばおっくが崩壊した時、ぼくは日本に居なかった。居なくてよかったのか、居るべきだったのか、今でも分からない。「居なくてよかった」と言ってくれた友人も居る。しかし居なかった故に、するべきこともしないで、異国に住まいを構えて生き延びて来た事に、酷く、悔いが残るのである。たとえ、僕が居たところで、何もできたはずは無く、旧会員にも、誰もぼくの責任を問うものは居ない。若し残って居れば、最後まで青木範夫と行動を共にした人たちと同じく傷ついたであろう。「居なくてよかった」といってくれる人はぼくが傷つかずにすんだ事を、よろこんでくれるからで、僕が居なかった事が、良かったという意味ではない。悔いが残るのはそのためである。ぼくが渡米する2年前、有る公演のプログラムにはっきり青木範夫に書かれた一文が有る。

... 外国に行く事が憧れの的であるのなら、競い合うようにして海外へ出て行く。しかし、アメリカで空手の道場をひらくことが、彼の人生にどれだけの意味を持つのか、それは一つの疑問として浮かんでこない。」

ぼくが、ばおっくを去ってアメリカに行く事の使命感云々に言及した一節だが、ぼくは言い訳をしなかった。使命感はぼくなりに持っていたのだが、結果的には、ばおっくを残して、にげだしてしまったことになるからだ。

このたび、ふと思う事が合って、学生簿をめくって数えてみたところ、大学のカリキュラムのクラスだけでも、過去40年に少なくとも延べ2万人の学生を教えて居た。その他、米国のぼくの組織下に有る会の会員を加えると3万人の学生を手にとって指導した事になる。こちらに居る日本人の指導員は武道に限らず、いわゆる日本の無形文化財を教えるものは、無意識の内に日本人の持つ価値観念を教えているから、ぼくが指導してきた学生たちは、好むと好まざるに限らず、ぼくが信仰する青木範夫宗日本教の洗礼を受けて来た筈なのである。もちろん此れは青木範夫の本懐ではない。彼は宗教的な啓蒙をひとに披露する気は全く無かったのであるから。

今はぼくもまた人の上に立ち学生や会員たちを指導するという立場になってしまった。青木範夫の事だから、どこかで、苦笑しているだろうが、ぼくとしては、師であり教祖である青木範夫の「人」の価値を伝播する以外に道はない次第である。

高畠ちくさ、佐久間寿男、小原輝子はぼくの時代からいて、最後まで青木範夫と行動を共にした会員である。いまさら遅きに過ぎる挨拶ではあるが、彼らの払った犠牲の一生と、ばおっくの思い出を糧として、今ここに、青木範夫の「復活」を予言、その「啓示」(revelation)を試みた。

 

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