プロローグ    第一章  第二章

第三章

第四章

  第五章

 第六章

 エピローグ

 

 

終章 (エピローグ)

 

 Planet of the Apes 

( 猿人の惑星)  

 

 

 本章は文字どうり終章と名付けたが、実は本稿の最初の章であるべき文章であったのだ。書き始めた頃、ぼくには、当然その辺の事が分かっていなかった。気が付いたのは、書き始めて数年経った頃だっただろうか。気が向いたときに、少しずつ、書きためて来た原稿を折りに触れ、ぼく同様、渡米してきて、ここに住み着いた日本人に読んでもらって、一応、共感はもらっていた。もちろん、日本に居る友人たち、あるいは観光でやってきたものたちは「へーえ、そんなものですかね」程度の反響を示したが、此れといって、彼らの知能(intelligence) を損なって不快な思いを与えたようには見えなかった。ところが、最近になってやってきた日本人学生に読んでもらうと、「面白いですね」とはいってくれるが、何か奥歯に物が詰まったように、自己弁護するような印象を受けた。ぼくは何も彼らがやったことを批判したわけはないのだから、怪訝に思った。

分かったのは、最近になって、僕と同期の友人が読後の感想 を送ってきたのを読んだ時である。彼が書くところによると「だけどなあ、山口、今の日本では俺が手塩にかけて育ててきた、娘、息子たちと話していても、まるで異邦人と話しているみたいで、意思の疎通に限界ができてきたんだよなあ」

僕はその時、はっと思った。そして受けとったのが、親友、渡辺敏の日本からの手紙だった。少し長いが引用させてもらう。

 

「今、日本は、そちらからどう見えるか知らないが、大変、殺ばつとした状況で、小さな幼な子を親がせっかんして殺し、子が親を殺し、親が子を殺すような事件が、毎日のように起こっている。街を歩いていて、たむろして煙草を吸い、酒を飲んでいる、中高校生を注意しようものなら、集団で袋だたきにされる。援助交際と称して、高校大学生の若い娘が、平気で売春をする。先生が小中学校で、級の問題児を叱ったり注意すれば、親から、何故うちの子ばかりが、そういう仕打ちを受けるのかと逆ネジを食わされる。先生もそれを恐れて、当たらずさわらずになるから、小、中学校の授業が騒がしくて、授業にならない状態が各地で起きている。子供(小学生)が学校の行き帰りに、知らない人から声をかけられたら、逃げろと先生も親も教えるようになった。変質者の誘惑事件が多発している。小さな子供に、人を見たら泥棒と思えと教えているようなもので、、、、」

この手紙をもらった時点では、渡辺にはこんな評論をぼくが書いていた事など一言も話していなかった。だからこの手紙は、ぼくが第5章に書いた、こどもを変質者から守るためにアメリカ人がどんな教育をするかの問題への返事ではない。教育の学園における「暴力」は紙数が足らずぼくも割愛したが、僕自身が教育者を持って自認するものであるから、実は別に「章」を新たにして書いて置くべき事ではあった。

この国では、理由がどんな事であっても、教え子を折檻したり、腕力を振るって処罰する事は一切許されない。流石に教える教材がカラテとあっては、腕力ではむかって来る学生は居なかったが、態度の悪い学生にうっかり、手を触れようものならば、回りのものが許さない。職員室から呼ばれ、謹慎を言い渡せられるのはこっちのほうである。ぼくの年代の日本人の男性ならば学生の頃、担任の教師に平手打ちを食らった記憶を持つものは意外に多いのではなかろうか。ぼくも23度その覚えがある。

人権の尊重は文明国家にあって、第一級の必要条件である。仮に自分の子供であっても手を触れることは、世の顰蹙を買うものなのである。終戦直後の日本にあってもすでに教育界で厳しく「肉体的」な懲罰を禁ずるようになっていた。だから、今の日本で子供を叩いたり、殴ったりする教育家は居ないはずである。問題は指導の必要な未成年者をどうやって矯正させるべきか、その方法である。渡辺もはっきり書いている。煙草を吸い、酒を飲んでいる中、高校生を注意しようものなら、集団で袋叩きにされる . . . と。

ここに、一発、殴られてしかるべきと思われる、傲慢で増長した学生たちが居るのである。殴って戒めるような野蛮性は持ち合わせないから、殴りはしないが、気になるから注意するだけでもと思って、注意して見ると、袋叩きになってしまった。あなたが教育者、あるいは心有る社会人であるならば一考せずにはいられない問題だろう。実はこれがアメリカの社会問題でもあるのだ。相手が未成年といえどもその人権を尊重して、不良少年に見える学生でも子ども扱いにせず、その心を傷つけないように気を使って、指導する。そのために、心理学者、犯罪学者、教育者たちがチームを編成して、その指導の仕方を訓練している。つまり、袋叩きになるのが怖くて、かれらの指導を諦らめるわけにはいかないからである。彼らは注意され、善導されなければならない。しかし注意するに当たって、その要領と技術を身に付けて置かなければ注意する事自体が、逆効果となり、不快な結果を招く。だから注意する当人をもって、どうやって注意するかその訓練を習得しておかなければならない。それがアメリカ人の考え方だが、もちろん日本でも同じだろう。大事な事は、それだけの時間と、労力をかけてでも、人権を守らなければならないこと。

少し複雑なのは、渡辺の手紙にあるような、少年を誘惑しようとする「変質者」である。ぼくは、偶々、サンフランシスコのCastro 街とMarket 街の角に住んでいた。ぼくの道場が一ブロック先にあり、市電に乗れば大学にも20分でいけたからである。まだ運転免許証を取る前の話。あなたがシスコの町に一度でもある方ならば、カストロとマーケットの名前を聞いただけで合点のいく程有名な、俗にいう「ゲイ」、つまりここは「同性愛者」のコミュニテイであった。見かけから言えば、「変質者」に見えるものが、たくさん居るのである。しかし、彼らは「変質者」では無かった。セックスの趣味、好みは違うが、ぼくらと何も少しも変わらない正常な人たちであった。「ゲイ」だから、少年を誘拐するだろうと考えるものがあれば、それは考える人のほうに非がある。といってしまうのは「言うは易しく、、、」の例えどおり、簡単である。(特にそれが本心でなければ)。それが本心で言えるようになるには、それ相応の経験と実感を身に付けなければならない。ぼくにもその判断のできない時代があった。もう大分前の話になるが、ぼくのクラスに登録した中に、一見、唖然とするほどの学生が入っていた。女の子だがその髪の毛はあたかも孔雀の羽、古代ローマの兵隊がかぶっていたヘルメットのように糊付けだった。結婚指輪のような輪が、鼻腔と鼻孔に一つずつ、もう一つこれは稽古衣に着替えたときに分かったのだが、お臍に一つ突き通してあった。ぼくは困った。登録を断ろうカナとは思ったのだが、うっかり断れば、官立の大学ではその理由が正当でなければぼくの落ち度になるから、どうせ直ぐ脱落するだろうと思って、何も言わなかった。

ところがどうだ彼女は欠席するどころか全セメスター無欠席、その難しい事では

ぼくのデパートメントでは指折りのぼくの筆記試験を満点、実技も男性を遥かに上回って一番、文句なしの「A」を取った。驚いたなんのって。ぼくはこのときほど、人は見かけに寄らぬものという格言を思い知らされた事は無い。だから、「変質者」というのはそう見える人間ではなくして、少年を実際に誘惑して「犯罪者」と判決された後に使われる範疇語でなければならない。

ぼくはそのほうの専門家ではなかったから、自分の子供を「変質者」から保護するという問題をどう処理するか、自分の判断に頼らず、何事も子供の学校の指示に従わなければならなかった。

子供に他人を信用するな。何をもらっても、ノー.サンキュウといって断ること。体を障られたら逃げる事、と真剣になって言い含めることが、日本人として、どれほど苦痛な事か、これはあなたにしかわかってもらえまい。

今ならぼくの母親も、ぼくが何を言いたかったのか分かってもらえるだろう。と、そこまで考えて、ぼくは愕然とした。何だそれならば、渡辺もぼくの母も、ぼくと同じ(心)の苦しみを味わっているという事だ。太平洋を横断する事もせず、同じ日本の土地に居ながら、ぼくと同じ経験をしている。何が変わったのだろうとぼくは考えた。「時」である。日本という「場」のスペースは変わらないのだから変わったのは「時」だけである。もちろん人もその環境も変わった。しかし「人」を変えたのは「時」ではなかったか。

少々俗物的になるが、ハリウッド制作の Planet of the Apes (猿人の惑星)という映画があったのを覚えていらっしゃるか。チャアルストン.ヘストン主演のサイエンスフィクション。三人のアストロナットが宇宙の旅行中、ある惑星に不時着する。アインシュタインの法則に寄れば、「時間」は宇宙間の旅行では「静止」するから、仮に何万光年の距離の旅をしても、宇宙船内の人は年をとらないのである。しかして、チャ-ルス.ヘストンの宇宙船がその惑星に不時着した時には、地球では、既に数万年の月日が過ぎていた。そこは「猿人の惑星」で人類は、居るにはいたが、聾唖で言葉の使い方も知らない、家畜同様な動物だった。その映画を見た方はあの最後のシーン、チャ-ルスヘストンが砂浜の中に埋もれた、ニューヨークにある筈の「自由の女神」の像を凝視して、砂に崩れ落ち、天を罵る場面を、印象深く、覚えていられるだろう。この惑星は実は地球だったのだが、あるとき核戦争が起こり、現代人は全て死に絶え、生命の新起源と共に猿人が進化、地球の知的生物となっていた次第である。

ぼくが今この映画を引き合いに出したのは、なんだかぼくのアメリカでの経験が、今、日本で起こりつつあるような気がするからである。つまり、ぼくの年代の者たちが、自分の子供や若者たちと意思伝達するに当たって、コムニケーションのギャップを感じ出したという事。それは単に使われる言葉の違いによって起こったのではなく、どうやら「価値の評価」の違いから起きた誤解にも発しているらしい。これは深刻だ。それが本当だったとしたら、ぼくの友人たちは家庭と世間との「和」を保つために、ぼく見たいに「コウモリ」なってしまう。いや、もうなってしまったのかもしれない。

2,3年前の事だが、偶々サンフランシスコの日本語テレビ局で一日遅れのNHK「紅白歌合戦」が中継されたのを見た。ぼくは戸惑った。彼らの日本語がおかしいのだ。特に歌謡曲の歌詞が意味をなさない。そしてその歌い方である。ぼくの日本語同様下手な英語の訳文を舌足らずに、平然と発音している。まともに歌詞が分かるのは、演歌と童謡だけであった。初めぼくはアメリカ帰りの二世が外国の歌をうたっているのかなと思った。明らかにそうじゃない。次々と出てくる男女の歌手がみんなそうなのである。最近は便利になって、歌詞はサブタイトル式にテレビの画面に映し出されるらしく、それを読めば歌の意味が分かる仕組みなのだが、読んでも分からない。英米のPOP ソングを訳したとしか思えない翻訳調の日本語である。

ぼくは舌足らずのぼくの日本語を考えてみた。舌が回らないのは日常使う言葉が英語だから、いざ日本語を使おうとした段階で発音が的確にできないのだ。しかし彼らが歌う歌は本来の日本語をわざとデフォルメした新しい日本語だ。

関西ベンを例に挙げよう。関西に育って、成年に達した時点で東京に上京、20数年の年月がたったとしよう。当然、標準語に慣れてしまい、関西ベンを使うにあったって、舌がもつれて美味くしゃべれない。聞いているほうが気の毒になるほど舌が回らない。突然、訳文のような東京べんも飛び出してくる。しかしこれは時間の問題なのである。彼が関西に戻って数年、いや数ヶ月過ごすだけで、彼の関西弁は完全とはいえなくとも、聞けるだけの会話はできるようになるから心配ない。

一方、ここに関西ベンを真似る事に秀でた男が居る。たとえば、役者みたいなプロフェッショナルである。彼はもちろん関西に住んだ事は無い。ただ必要あって真似ているに過ぎない。なるほどうまく真似てはいるが、地元の関西人が聞けばすぐぼろが出る事は受けあいだ。だから歌謡曲を歌う日本人の歌手は、ぼくみたいに日本語のおかしくなった観客を意識して歌ってくれているのではない。彼ら自身がぼくみたいな日本語を使ってみたいのであろうか。否、そんな事はあるまい。そんな歌を彼らに創って歌わせる職業のインシツチュウションがあって、歌謡界に新しい日本語の歌を紹介しているまでだ。 それとて決して、有る一定の個人が意図してやっているのではない。おそらくマーケットのリサーチをする機関が、聴衆者の好みを統計にとって大衆に受ける歌謡曲を作るまでのことである。

言葉は媒介体となる人間同様、生き物である。変わらないほうが、かえっておかしい。しかし流行語、外国語から拝借した特殊な単語を日本語にするのならばとにかく、シンタックス (構文法)まで変られる物だろうか。誤解しないでもらいたい。ぼくは決して、翻訳調の日本語を使う歌謡界を笑ったり、批判しているのではない。ご存知のとうり、ぼくはコウモリを持って自認するものである。普遍ならず我が母国語が外国語になってしまうのはかまわない。プロローグに述べたが、言葉は意思伝達の媒介体(ビヒクル) である。意思の伝達が新しいシンタックスを使う事で、より正確になるのならば、結構な事である。物を書くことを日課としているものとして、これはなかなか、challenge (チャレンジ) したき課題ではある。

俗に言うピジョン·イングリシを考えてみよう。日本語の語順に英語の単語を挿入した文体である。 たとえば 「ユーがユーのワイフを連れてムービーに行ったサンデイのナイトの時の事だけどさ」 一見英語みたいだけどちゃんとした、日本語である。名詞が英語からの借り物に過ぎなく、文体の構成は間違いなく日本語である。こんな日本語はぼくが日本に居た時代でも既に使われていた。「このウイークエンドはファミリーでクルーズのツアーにでも行くか」という文体と全く変わらない。もちろん、同じ文章を、「この週末は家族で遊覧船の旅にでも行くか」と言うべきである、という人があるならば、「ぼくはパソコン持っていないんで、ネットのクルーズニにアクセスできないんです。」という簡単な意思表現をどういいかえればよいのか、困るだろう。明治大正の時代から欧米の単語がそのままの形で日本でも使われてきたからである。ようはその単語がドノ程度日本人の生活に密着しているかである。

これは日本語ばかりではない。アメリカの場合でも同じである。英語になって、辞書にも載っている日本語は意外にたくさん有る。あまりに卑近な例で失礼になるかもしれないが、ぼくの生徒ならば、次のようなセリフを日常語のように言いなれている。

“My karate sensei told me to come by dojo tomorrow with my gi”

翻訳の必要はあるまいが、「おれのカラテのセンセイが(カラテ)衣()をもって明日、ドウジョウに来っていってた」 である。

日本語の単語がたくさんあるが、シンタックスは英文である。なにも、文句のいいようのない、表現で、分からない人が居れば、それはわからないほうの責任なのだ。

ぼくはサン·フランシスコ到着の日以来、ブリーフ·ケースには、いつも和英、英和の辞書を持って歩いた。初めの10年は和英に頼ったが、以後は、英和に頼らなければならなかった。日本語が出てこなくて、英和辞典で、日本語を思い出すためだ。こんな事が有る。日本から遊びに来た観光客を接待するに当たって、「ほらあそこに、エスカレーターが御座いますでしょう。」と、いいかけて、エスカレーターを日本語でなんと言ったか、口に出てこないのである。「アア、自動降昇機じゃない、あれはエレベーターだから、エスカレーター、なんだったかな、、」もちろん友人たちは失笑していた。あとで気になって、英和をめくると、自動階段、エスカレーターの訳が出ていた。「自動階段」なんて、言ったら、もっと笑われていただろう。

これは、バイ· リンガルを使い分けをしようとするもののかかる、副作用とも言うべき病気の例であるが、肝心な事は、英文の文法をそのまま日本語に当てた表現ができるかということである。

少し道草をして、実験してみよう。日本語の語順に英語の単語を挿入した文体である。

“I want you to stop bugging me, please” という英文の表現を例にとって見る。意味は簡単に言って、「頼むから、じゃましないでくれないか」 という意味である。これを翻訳調の直訳にすると、「我、求む、汝が中止されんことを、しかして、我をして、悩ませぬよう、お願い奉る」と、候文にしても、漫才にもならない。インド· ヨーロッパ 語と日本語のシンタックスは根本的に違うためである。

しかし、英語の構成法に従っても日本語に使用とすればそれも不可能ではない。一寸、無理かもしれないが、やってみよう。

「ぼくが、してもらいたいのはね、君にやめてもらうこと、そうやって邪魔してるでしょ。ぼくを。頼むよね。」

意味は何とか通じるのではあるまいか。しかし、あまりにも、バターっ臭いし、聞いていてもいらいらしてくる。とはいいながら、確かに日本語として意思の疎通はできる。少し創造力のある人ならば、新しい表現として、使ってみたいだろう。これが歌謡界で使われる歌謡曲の日本語なのである。新鮮でもあり。可能性は、少し工夫すればいくらでもあろう。

しかし、まだコウモリになっていない、ぼくの世代のものには、これは蓋し、憂き事で、気に入らない現象として、目に映るのではあるまいか。

とは言いながら、いたずらに若者たちを批判して、つまり注意して、袋叩き(マスプロから、精神的なリンチを受けるという意味)になるよりは、何も言わずにそっとしておこうと思われている、あなたに一言。ことばは変わるものなのです。だから変わった言葉を的確に把握する事で、意思の伝達に支障がないように、(あなた自身の)訓練をしなければならない次第です。それがコウモリがコウモリになるための第一の資格なのです。  

言葉ですらこうやって、変わってしまう。アメリカは今、長さ重さの基準を測る、フィート、パウンドをメートル法に変える作業をしている過渡期である。メートル、グラムは10進法で計算にも都合がよいからである。日本は早くから欧州のメートル法を採用してきているから、先ずしばらくは変わらないだろう。しかし、価値観念の基準、善悪の定義という、形而上学的な基準ともなれば、その限りではない。

日本の友人たちの便りでは、老若の違う世代で「意思の疎通] が難しくなるほどの違いができ始めているという。これはぼくが迂闊だった。ぼくの記憶に有る日本語が進化するぐらいの事なれば改めて日本語を習えばそれで済むことだが、価値の基準が変わるとなると、その基準を身でもって経験しなければ実感がないから、アジャストしにくい。これはぼくも第3章でくどくどと述べたように、日本には旧、新さまざまな「道」がある。明らかに、今、新しい形而上学的高速道路ができつつあるようである。それはそれでよい。しかしその道は、日本に居るぼくの世代の者たちが馴染めない道であって、ぼくとて、とても歩けぬ道だろう。暴走族のバイクに跳ね飛ばされるのが関の山だ.

望むらくは、ぼくも歩ける「旧道」が残されていて欲しい。日本のことだ、神武天皇以来の伝統ある旧い「人の道」を、ぼくが歩けぬほどに取り壊してしまうとは思えないから。

中学三年の昔、英語部にいたとき、「浦島太郎」の英語劇を学芸会でやった。演出は英語部の担任教師、渡辺愛子先生。先生自作の脚本でぼくは浦島太郎の役につけてもらった。

浦島   ‘The sky is blue and the sea is calm. Here I am,

                  now, going to the Golden Palace!”

 

恐ろしいもので、この年にもなって、その時の一節を未だに暗記している。

しかし、あの頃は、まさかぼく自身、浦島太郎の運命を背負い込むになるなどとは夢にも予想していなかった。

ぼくは旅先で生きている。旅が嫌になれば、旅を終えて、帰れる故郷がある。だから異郷にあって、苦しい事があっても、何とか出来た。帰れば良いのだから。飛行機の券を片道買えるだけのドルさえあれば。家を出て、エア.ポートに行き、飛行機に乗ってしまえばよいのである。あとは居眠りしながら、十数時間を翔ければ起きたときはぼくの祖国である。

やんぬるかな、それはぼくの無知がなさせる夢であったようだ。成田空港は残っているから、着陸はできるはずだ。空港内の掲示板はすべからくローマ字だろうし、スピーカーからのインフォメーションだって英語だろう。ぼくの英語が分からない人にはノートブックを持って歩いて、必要に応じて英文を筆記すればよい、英語は話せなくとも、高校を出たものならば、シェクスピアを翻訳できたものがいくらでもいたのがぼくの時代だったから、今なら中学生だって読めるはず。だから、成田から都内に入るのは少しも難しい事ではない。渋谷に行けば「忠犬八公」の像もあるだろうし、有楽町には例の有楽町橋、神宮に行けば、神宮野球場がまだたっているはず。

だから「猿人の惑星」のチャールス ヘストン」を真似て、天を打つかのような真似もしなくとも済むはず。日本も東京もちゃんと地に立っているのだから

浦島太郎は自分の意志で、助けた亀の道案内をアクセプトして進んで竜宮城を訪れた。ぼくも進んでアメリカに渡ってきた。太郎はしかし接待のパーテイに疲れ、飽き、そしてホームシックに、かかる。

乙姫様から手土産にと言ってもらった、玉手箱を片手に、我が恋しき村に帰ってくる。

ぼくは「浦島太郎」の話の起源を、寡聞にして知らない。「島」は今はやくざの隠語にもなっているシマ、いわゆる都市圏とでもいえる、空間の「場」。太郎は「太郎冠者」の太郎で、男性のことだから、ウラという国の男のはなしという意味だろう。韓国にもウラという国もあるだろうが、ウラは日本にもたくさんある固有名詞である。一方、「浦里」という言葉は漁村の事を言うから、ここは簡単に、「有る漁師の物語」の意味だったかもしれない。いずれにしても日本国固有の伝承だと思う。

ぼくが感心したのは、太郎が過ごした「竜宮城」の数日間あるいは一週間が「俗界」の百年に比類していたという感覚である。もちろんこれは浦島太郎ばかりではない。スコットランドのブリガドーンの話、中国の「桃源郷」など他にもある。だから、日本人の独創ではなかったとしても、アインシュタインの惑星間行程のおける時間の法則が(おそらく偶然だっただろうが)古代の人の空想に貢献していた事である。 

今ひとつ、面白いと思ったのは、太郎の手土産「玉手箱」である。「玉」は国学者に言わせると、「墓場の火の魂」の「魂」、おそらく日本人が信心していた「人魂」のこと。「玉手箱」ではなくして、「魂手箱」なのだ。ぼくは、己の魂を小箱に入れてもらって故郷に帰っていく男、そのイメージがすごく好きだ。ふたを開けたとたんに、白い煙(煙が白色だというのも愉快)が出てきて太郎を包み、太郎から離反していた魂が身体に戻って、太郎は即刻老体となる。肉と霊がそのように連鎖作用を持つと考えた古代の日本人の創造力に拍手をおくる次第である。  

さて、今浦島のぼくが上京するとする。まぶたの裏の東京はなく、あるのは、見知らぬ外国の町であることは前の経験で、肝に銘じて覚えている。国電はなくともJRが走っているから、行き先さえ判れば、地図を片手に時間さえかければ行き着ける。渡米以来、知らない他人の都市をおとずれた事は数々あるから要領は知っている。金さえ持っていればタクシーだってあるし。宿泊は高くついてもホテル住まいで良し。食事だって好き嫌いのない便利な体だから、人が食べるものを食べておれば、餓死する事もあるまい。しかし時にして、1週間、いや10日が限界だろう。長期の滞在、ましてや住み着くことはおそらく不可能であろう。

そこは「人」の国にあらず、「鳥」でも「獣」でもない国、ぼくが訪問してきたアメリカと少しも変わらぬ、「猿人」ならぬ、「コウモリ」の国だった故である。

ぼくが東京を出たのは、東京オリンピックが開催される二ヶ月前、1964年の事である。今有る高速道路もまだできていなかった。今は世界でも有数なる大都市である。ぼくはしかし大都市にすむ必要がない。帰りたいとすれば、それは、そこが、ぼくが持つ「知覚」の温床の地であること。そして、そこがぼくの信奉する「宗教」の発祥の土地であるからである。ジュウデオ·クリスチャン·モスレムの信者たちが行う巡礼である。ヨルサレムやメッカを訪問するのと同じである。

浦島太郎は彼の故郷を道行く村人が見知らぬ他人と知って、「竜宮城」に引き返したかったかどうかぼくは知らない。窮して玉手箱のふたを開けたというのが、有名な話である。問題は「たまてばこ」に閉まってある、ぼくの霊魂をどうするかである。太郎は中身が何か知っていたら、あけずに、そのまま竜宮城に帰っただろう。ぼくならそうする。「玉手箱」はどこか砂浜の砂の中に埋めておけば良いのである。

アメリカは俗に「人種の坩堝」といわれているように、多種多様の人たち、その信心する宗教の違いを云々するならば、先ず日本の比ではない。彼らの信奉する教義、作法、慣習を忠実に守りながら、更には米国市民として市井の義務を果たしながら生活している。 Bimetallism とよばれる、ダブル·スタンダード (二重の価値評価) あるいは multiple standard (複式の価値評価) を日本人が箸を使うようにこなす。時と場合によって価値の標準を換えるのである。しかもぼくみたいに、「鳥」と「獣」の両棲を恥じて、ぼくはコウモリだなんて告白する、単純なメンタリズム、罪悪感なしにそれができるように訓練されている。いまさら祖国が亡くなったなんて嘆くような sentimentalism なぞ持ち合わせていない。ぼくも見習わなくてはなるまい。

ぼくの妻、ハイデは百年前、ウクライナから移住してきたロシア系ユダヤ人の末裔である。ご存知のように、ユダヤ人には祖国がない。パレスチナにイスラエルという国を建国したのは、聖書の予言を政治的に解釈して「創り上げた」祖国である。東ヨーロッパから脱出してきた何百万人の アシケナジ系ユダヤ人の祖国はもはや何処にも存在しない。彼らが一時的に住んでいた場所は何れも他人の国の土地だったのだから、かれらが、ナチやポーグロム (コザックによるユダヤ人虐殺) を逃れて脱出したあとは、彼らの先祖の墓場しか残っていない。その無人の墓(cemetery)を訪れて、ご先祖の墓参りがしたいというのが、妻の念願である。立派に日本国という国体もあり文化も残る祖国がぼくにあるということは、けだし、幸いなることである。

「玉手箱」を砂浜にうずめてうんぬんは、冗談である。大切に保管するつもりである。この箱がぼくのパンドラの箱になることを覚悟しながら。  

 

妻のご先祖を探訪した「ポドリア紀行」は下記のリンク先に掲載しました。

http://www.pervin.net/

 

  02/15/04  

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